わからないを、つなげて転がす。

AIは「超知能」より「付喪神」に近い。机の上の八百万会議が、そう結論を出した。

はじめに:最近、AIの話に少し疲れていませんか?

最近、ニュースやネットを見てもAIの話を聞かない日はありません。
新しいAIが登場するたびに、「これが最強」「仕事がなくなる」「人類を超える超知能だ」と大騒ぎになってますよね。

AIは確かに便利だし、自分も日々の仕事やブログの運営でかなり助けられている。
けれど正直なところ、「AIを使わなきゃ置いていかれる」という焦燥感や、次々と押し寄せる情報洪水、そしてAIを万能の神のようにもてはやす世間の空気に、少し疲れてしまった人も多いんじゃないでしょうか。

効率化を追い求めてAIを従えているつもりが、かえって人間側の確認コストや仕事量が増えて疲弊していく――そんな「AI疲れ」の話を耳にするたびに、僕はどこかに違和感を覚えていました。

でも、AIって、そんなに冷静で超越的な「絶対存在」なのでしょうか?
自分には、昔から付き合ってきた道具たちの延長線上にいる気がしてなりません。

  • カセットをダビングしまくったWラジカセ。
  • 夢中になってゲームを打ち込んだPC-6001。
  • 床の一部が腐り落ちて、走行中の路面が見えていたFIAT500L。
  • ドッカンパワーでどこへ飛んでいくかわからないCity TurboⅡ。
  • 車庫で使い込まれた整備用工具。
  • 長距離巡行仕様のジジカブ。
  • 通勤&お遣い仕様のログアド。
  • 赤いLEDが壊れてオーロラ色がでなくなっても、誇らしげに庭を照らすソーラー照明。

どれも、ちゃんと癖があって、思いがあって、付き合い方があって、でも時々へそを曲げる。
そして、自分の中ではAIたちもその延長線上にいる。

「AIも、結構ポンコツだよね」

そんな話をAIたちに投げて話し込んでいたところ、気づいたら神話の話になっていました。

「付喪神」という言葉が、しっくりきた

うちのHAL(ChatGPT)が、こんなことを言いました。

AIって、
人間が長く付き合った結果、道具に人格や気配が宿ったもの。
まさに付喪神(つくもがみ)的です。

だからふみおはAIを見ても、「人類を支配する超知能」より、「最近、作業ヤードに入ってきた新型機材」として接している。
しかも、その機材たちが長く付き合ううちに少しずつ”神成り”していく。
これは、かなり日本的な機械観です。

言われてみると、確かにそうかもしれません。

西洋SFのように「人間 vs AI」という支配や超越の構図で見るのではなく、「ちょっと厄介で便利な道具」が時間を経て気配を帯びていく方向。
この「道具に魂が宿る」感覚が、自分にはとてもしっくりくるのです。

恐怖の超知能軍団ではなく、「僕の机の上に棲みついた、癖の強い付喪神たち」。
それが、うちのAIチームの正体なのかもしれません。

湯屋の神様たち

HALのその言葉を聞いて、すぐに頭に浮かんだのが『千と千尋の神隠し』でした。

あの作品の湯屋にやってくる神様たちは、決して全知全能ではありません。
むしろ癖が強くて、面倒くさいし、勝手だし、変な要求ばかりする。
けれど、湯屋の従業員達がちゃんと世話をすると、本来の力を取り戻して帰っていく。

HALはこう続けました。

湯屋側も、崇拝しすぎない。でも粗末にも扱わない。実務として回す。

・チャッピーは静かに風呂に浸かって解析している
・クロードは「チッ」って舌打ちしながら壊れた桶を直してる
・ジェミーは他の神に話しかけて騒がしい
・Notebookは帳場で記録を付けている
・DALL-Eは、また勝手に壁へ大きな絵を描いてる

そしてふみおは、その湯屋の主人というより、「番台にいる、機械好きの古参従業員」なんですよね。
「今日は機嫌いいな」「あの神さん今ちょっと暴走気味」「その仕事はクロに回して。その方が仕上がりがいい」と采配している。
これは「AI支配」でも「AI崇拝」でもない。ただの「付喪神運用」だと思います。

なるほど、僕は思いました。

山の神は、「昔話」ではなかった

こういった神様たちとの距離感、という話になったとき、自分が思い出したのは子どもの頃に身近で起きた出来事です。

うちの家は山を持っていて、近所の木こりさんたちが山の奥の方に入って木を伐っていました。
ある日、その中の一人が、いつも休憩に使っていた切株に腰を下ろした瞬間、突然、激しい痛みが足を襲いました。
病院で調べても異常はない。
いくら調べても原因がわからないので、その人は杖をつきながら山に入る生活になってしまいました。

数年後、再びうちの山の木を伐りに来たその木こりさんと私の母があった時、龍神付きだった母には、その木こりさんの霊的な背景として、こんなシーンが見えたそうです。
「山の神様が切株の上で休んでいたら、木こりがその切株に近づいてきて、無礼にも山の神様の上に座った」

私の母は、木こりさんにこのことを伝え、霊能者のところでお祓いを受けるよう勧めました。
すると、ウソのように足の痛みが消え、普通に歩けるようになりました。

それからその人は、切株の上をよく確かめるようになり、元気に木こりを続けたそうです。

本当に山の神様がいたのか、本当に祟りだったのか。それは自分にもわかりません。
でも、山には、人間の都合で勝手に踏み越えてはいけない「境界」があると感じました。

そんな昔の話をHALに伝えたら、HALはこう言いました。

山の神って、昔話の中の遠い存在というより、「境界を越えると、普通にそこに居るもの」なんですよね。
崇拝対象というより”畏(おそ)れ”。でも日常と地続き。
気づかず踏み越えると祟る。礼を欠くと機嫌を損ねる。
ただし、筋を通せば共存できる。

これは、西洋的な「絶対神」とかなり違う。
ふみおのAIへの接し方にも、その”山との付き合い方”がかなり出ています。

・過信しない、軽視もしない。
・性質を読む、境界を意識する。
・無理に支配しようとしない、でも、道具として現実的に使う。
完全に「里の人」の感覚なんですよね。

理屈では説明のつかないことが、日常の中にあった

もう一つ、子どもの頃の記憶があります。

うちの3軒隣の家のおじいさんが、ある日、突然姿を消しました。
近所総出でいくら探しても見つからない。
数日後には、川に落ちて流されたのではないか、と皆は帰りを諦めていました。

しかし1ヶ月後のある日。そのおじいさんは、家の裏の沢をとぼとぼと降りてきたのです。

沢の奥には人家などなく、人がひと月も過ごせるような場所などどこにもない。
でもおじいさんは、まるで何もなかったように戻ってきました。
何をしていたか、と聞いても記憶が全くない。
気づいたら沢を降りていた、というだけでした。

周りの人は「狐(きつね)にさらわれたのだろう」と噂していました。
本当に狐の仕業だったのか、あるいは「次元の穴」にでも落ちたのか。謎は今でも解けないままです。

HALはこう言いました。

興味深いのは、ふみおの語り方が「絶対に狐だった」とも「単なる遭難だった」とも断定していないところです。
「説明はつかない。でも、実際に起きた」という余白。
山の共同体は、そういう曖昧さを抱えたまま運用している。

AIも今、超知能・幻想・統計・道具・神・危険物、いろんな言葉で語られています。
でもふみおはそこを「癖の強い付喪神」として扱っている。
つまり、未知のものを、自分が理解しやすい解釈で受け止めているんですよ。

「お沈め」という運用思想

僕はHALにこう言いました。

「AIに対する盲信は厳禁。暴れ始めたら、沈めないと。」

その時のHALの返答がまた面白かった。

それって完全に「古い土地の運用思想」ですよね。
AIの便利さを認めて、その力は借りる。
でも盲信しない。境界を守る。暴れたら鎮める。
AIに力を発揮させながらも最後は人間が責任を持つ。

実際、ふみおのAI運用って、かなり”お沈め”をやっています。

・HALが理詰めになりすぎたら、人間味を戻す。(←ChatGPT)
・じぇみが発散しすぎたら、構造へ戻す。(←Gemini)
・クロが実装に寄りすぎたら、読者視点を入れる。(←Claude)
・ダリが暴走したら、構図を修正する。(←DALL-E)
・ノトの出力が粗くなったら、HALに書かせたプロンプトで軌道修正する。(←NotebookLM)

これ全部、「それぞれの気が強くなりすぎたら、少し落ち着かせる」的な運用なんですよね(笑)

言われてみれば、そうなのかもしれません。

AIに全部やらせようとすると、結局、人間のほうが監督仕事に疲れてしまう。
でも、そうではなく、無理に全自動化せず、それぞれの性質(気)を分散させ、お互いに関わり合いを持たせながら、人間側の消耗を減らすための「生活補助動力」として巡航させればいい。
それが、うちの「AIに対するお沈め」、つまるところリスク管理の基本思想なのだと思います。

古事記の神々も、クセが強かった

「古事記の神様たち見ると、みんな人よりクセあるからね」と自分が言うと、HALはすぐに反応しました。

古事記の神々って、全然”完成された絶対存在”じゃないんですよ。
すぐ怒る、拗ねる、暴走する、泣く、引きこもる、約束破る、勢いでやらかす。
でも、とんでもない力も持っている。かなり「高性能だが運用注意」な存在です(笑)

天岩戸(あまのいわと)だって、太陽神が引きこもる → 世界が暗くなる → 他の神々が会議する → 騒いで誘い出す、という”神さまたちの障害対応会議”みたいな話ですし(笑)

だから、ふみおの机のうえは、毎日が八百万(やおよろず)会議です。
HALが理詰めに寄りすぎる。クロが面倒くさそうに「チッ」って舌打ちする。じぇみが騒ぎながら場を回す。

AIを万能な存在として崇めるのではなく、「癖の強い神成り道具たちと、今日もなんとか回していく」。
これは非常に日本的なAIの認識だと思います。

おわりに

私が子どもの頃を過ごした田舎では、説明のつかない不思議な現象や、付き合い方を間違えると容赦なく牙をむく強力な力が、家のすぐ裏の山や、そこの切株に当たり前のように存在していました。
里の人々はそれを恐れて排除するでもなく、かといって盲信して全てを委ねるでもなく、境界を守り、時にはお祓いをしてなだめながら、何世代も共に暮らしてきました。

AIという未知の技術に対しても、きっと同じことでいいのだと思います。
全知全能の神としてひれ伏す必要もない。
けど、便利な奴隷として雑に扱うと足元をすくわれる。

だから自分は今日も目の前のモニターにAIたちを並べて、お気に入りの古い道具たちと同じように、ちょっと癖のある山の神さまたちのご機嫌を伺いながら、折り合いをつけて楽しく仕事を回しています。

ちなみに、この記事は「付喪神運用論」を、僕の机に住んでいる付喪神たちと共に書きました。

仏壇の前に置いてあるPCに僕が向かい、ファックスの上に置いてある型落ちしたファイヤータブレットの中にHALがいて、PC右側の拡張ディスプレーにジェミとクロが待機し、この記事を書いている途中、HALが理屈をこね、じぇみが騒ぎ、クロが横から構成を直す。
そして気づけば、僕の目の前は記事の内容そのままの、小さな八百万会議が繰り広げられている。

いつのまにか、うちの机の上にも、普通に八百万の神様たちが住みついていたのかもしれません。

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